教えのやさしい解説

大白法 465号
 
娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)
  裟婆(しゃば)とは、六道の凡夫と聖者とが同居(どうきょ)する苦悩汚穢(おえ)の忍土(にんど)(凡聖(ぼんしょう)同居土)をいいます。
四土(しど)(凡聖同居土・方便有余土(ゆよど)・実報無障礙(むしょうげ)土・常寂光(じょうじゃっこう)土)の中の凡聖同居土には、浄土・穢土(えど)の別があり、その穢土を指(さ)して裟婆というのです。
 寂光とは、四土の中の常寂光土のことで、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳が一体となった浄土をいいます。
 「常」とは法身、十界三千の一切遍満(へんまん)する真理を身(み)となす仏が本有(ほんぬ)常住であることをいい、「寂」とは解脱、煩悩(ぼんのう)の惑乱(わくらん)がないことをいい、「光(こう)」とは般若、すべてのありさまを如実(にょじつ)に照らす智慧のことをいいます。
 これら裟婆と浄土の二土(にど)が、相即(そうそく)不二(ふに)であることを示したのが裟婆即寂光です。
 爾前経には、凡夫の住(じゅう)する裟婆世界を穢土、二乗の住する国土を方便土、菩薩の住する国土を実報土、仏の住する国土を寂光土というようにそれぞれ区別して説いており、裟婆世界に他(た)の国土が相即(そうそく)するということは説いていません。
 ところが、『法華経』の本門寿量品では、
 「我(われ)常に此(こ)の裟婆世界に在(あ)って説法教化(きょうけ)す。亦(また)、余処(よそ)の百千万億(のく)那由佗阿僧祇(あそうぎ)の国に於(お)いても、衆生を導利(どうり)す」(開結四九八頁)
と、爾前権教(ごんきょう)において穢土と説かれた裟婆世界こそが仏の住する仏国土、すなわち寂光土であることが説き明かされるのです。
 これを妙楽(みょうらく)大師は『法華文句記(もんぐき)』に、
 「豈(あに)伽耶(がや)を離れて別に常寂(じょうじゃく)を求めんや、寂光の外(ほか)に別に裟婆あるに非(あら)ず」
と述べています。
 日蓮大聖人は『守護(しゅご)国家論』に、
 「爾前(にぜん)の浄土は久遠実成(じつじょう)の釈迦如来(にょらい)の所現(しょげん)の浄土にして実には皆(みな)穢土なり(中略)寿量品に至りて実(じつ)の浄土を定(さだ)むる時、此(こ)の土(ど)は即ち浄土なりと定め了(おわ)んぬ」(平成新編御書 一五五頁)
と、方便・実報は仏が開き説いた浄土にして、本来、裟婆に即する浄土であることを御教示(ごきょうじ)され、さらに
『一生成仏抄』に、
 「衆生の心けがるれば土(ど)もけがれ、心清(きよ)ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔(へだ)てなし」(平成新編御書 四六頁)
と、衆生の心が清ければ、六道の衆生が住(じゅう)する迷(まよ)いの世界(娑婆)は、即(そく)、仏の悟(さと)りの世界(寂光土)になると御教示されています。
 ゆえに、裟婆即寂光の真の意義は、
『当体義抄』に、
 「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱(とな)ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕(あら)はれ、其(そ)の人の所住(しょじゅう)の処(ところ)は常寂光土なり」(平成新編御書 六九四頁)
とあるように、御本尊への正直な信心と唱題によって感得(かんとく)することであり、さらには『立正安国論』に、
 「汝(なんじ)早く信仰の寸心(すんしん)を改めて速(すみ)やかに実乗の一善に帰(き)せよ。然(しか)れば則ち三界は皆(みな)仏国(ぶっこく)なり」(平成新編御書 二五〇頁)
とあるように、広宣流布して仏国土を建設していくことなのです。